昭和43年12月22日 朝の御理解



 御理解 第98節
 「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」

 落ち着こうと思うても落ち着けない、平気であろうと思うても平気でおれない。そこに自分の信の度合いと言うものを感ずる。それでもやはりおかげを受けておる。それもやっぱりおかげを下さってある。ですからここの所は信心を進めていく焦点であり、又信心の理想であるいつも平気でおれれる。いつも落ち着いて静かでおれれる。これは神様へ願う時だけではない。言うならば人に対してもいつも心が静かで平生でなからねばならぬそこに自分の信の度合い。いわゆる心は信心の定規じゃと仰る。」
 心は自分の信心の程度をそこに知る事が出来る。非常に難しい事に取り組んで行かなければならん難しいというか何と言うか、ごまかせばなんぼでもごまかせるところですからここは。心の事ですからいわゆる平静を装うと申しますでしょう。静かではないけれどもグッと押さえて静かな風を装うのです。だからここはごまかしがきくところですから、結局自分自身でなからなければ分からない。そこのところが段々信の度合いが出来てくると平静でおられ、いわゆる落ち着いておられる訳です。
 信心はそういうところに取り組まないと、実は信心の有難いものには、触れていかれないのです。そうしてそういう平静でおられない。静かでおられないと言う事が、何が私を、そう邪魔をして心を乱しておるかと言う事を追求するのです。例えばすぐカーッとくる人がある。それでもそれをグウグウ言うて堪えとる。何がそうカーッとこらせるのか。それを平静でどうして受けられんのか。何が邪魔をしておるのか。そこのところを分からしてもらうところから。
 これだと言うものを感ずるのです。一番多いのは結局は限りなく美しくなりましょうといつも私が言うがそれとは反対にもう限りないほどに自分の汚さが、そういうカーッときたり、平静でおられなかったりする原因になるのです。色々その原因は御座いましょう。この九十八節をこういう風に、私は頂いております。本当に自分の信心の度合いと言うものをその都度、自分の信心はこの位だなあといつも思います。そして勿論これはいよいよ本気で改まらないけんなと思います。
 そこで今日は、私はそこんところをやろうと思えば誰でも出来る。本気になれば誰でもやれると言う様なところを、ひとつ頂いて行きたいと思う。「心は信心の定規じゃによって」と、ここをひとつこころでは汚いいうならば「形は信心の定規じゃによって」と。これは時々正確でない時がある。けれどもこういうところから、ひとつ当たっていきたい。例えて言うなら合楽を評して言う人達が「合楽が今、ああしておかげを受けておるけれども。あれは偶然あれはふがよか」。
 ある先生が「大坪さんあんたは本当に、運がよかつばい」と仰った。けれどもその運を掴むのが信心なんですから。運が流れてきておってもそれをよう掴みきらない。結局はあなたの信心がこうして、形の上に表れてきておるんだと、言う人と運が良くてあれが出来たんだ、例えば御造営の事でも。けれども私は思うのです。やはり形に表れてくると言う事は、ある意味合いに於ては、その人の信心の定規だと思う。
 どんなに偉い先生だと言われても、その先生のお広前で人が助からず、言うなら難儀に甘んじてござるとするならばです。私はここに大きく反省しなければならんのじゃなかろうかと思うのです。これは心のように正確じゃないですよね。確かに神様の御都合と言うのがあるのですから。だからこうやっておかげを頂いておる事が神様の御都合と言う頂き方は、間違いがないですよねえ。
 それとてもです。そういうおかげが表れてくると言う事は、やはりその信心に、それを受けれれるだけのものを持っておるからだと、それだけの信心が出来ておるからだと、してみると、形もまた定規として頂いていかなければならない。「心は信心の定規じゃによって」と言うところを、「形は信心の定規じゃによって」と頂く。それは心のように正確無比と言う事じゃないけれども。神様の御都合と言う場合があるから。信心は出来んでも、言うなら水脹れ的おかげの時もあるから。
 だから合楽の場合でも、あれは水脹れ的なおかげじゃから、ふがよかったつじゃから、またいつかべちゃっといくがの、と言う見方も間違いじゃないですよね。問題はおかげを頂いておると言う形の中にです。本当なものを詰めていこうとする精進、又それによって慢心する事なく、信心を進めていこうと言う様なものは、勿論私共には大事ですね。ところがそのこれは合楽の場合ですけれども。あれを考えこれを考え、縦横<+>文字から眺めてみてです、そして水脹れではなかろうと思うのです。
 これは私の言い訳になりますけれども、まあ今日の形は信心の定規じゃによってと言うのは、その位にします。ですからここのところはね、形と心が相まって、自分の心の中に有難いなあ。このような中にでも、元気な心が生き生きと湧いてくる。よしそれは形の上ではこれ位だけれども。この喜びこの元気な心がある限り。私は必ずおかげが受けられる。そういう信念を持てれるものであるならば、その形は問題じゃないです。この信心を押し進めていきさえすれば今心の中に頂いておる。
 これは神様と自分だけしか知らん。人間な形だけしか見らん。けれども自分な自分の心の中に咲く花を、いわゆる弥陀より他に知る人がない、と空海が言ったように、自分の心の中に頂いておる信心の喜び。これは神様だけしか御承知じゃない。この喜びを押し進めてさえ行けば、私はおかげが受けられると、確信が持てれる。ここのところになってくると、もう形は定規じゃないと言う事になるのですよ。そこんところも考えなきゃならない。今日私が、その先に言おうとしておる事はね。
 形は信心の定規じゃと言うのは、そこではなくて例えて言うなら、花嫁さんが角隠しを致しますですねえ。いわゆる女と言うのはいつも角をうちに持ってると言う訳です。だから角を隠すのだ。言うならば「心にはどんなに辛い苦しい思いを致しましても、顔にはニコニコとにこやかにあれと言うのです。私はそれが出来ると言う事をです。信心の定規として行きたいと、今日は三段構えに九十八節を頂きましたね。落ち着いて静かに願え、平気でおれない。
 それにはそこには何かが平静ではおれない、何かがあるとそれを追求していく。そこのところを追求し味わっていくのでなければ、信心の楽しさと言った様なものはないと、初めに申しました。次に心は信心の定規じゃによってと言うところを、形は信心の定規じゃによって、信心が出来ておるからこそ、あれだけのものが頂けておるのだと言う頂き方。そこに定規を押し当てる。しかしそれはちょっと曖昧な場合もある。水脹れな場合があるからと言った様な事を申しましたですね。
 けれども今私が言うておるのは、心は信心の定規じゃによってを、また形は信心の定規だけれど。自分が言うなら形の上の事だけでも、この位の事すら出来ない、出来ると言うところをです。今日はひとつ定規に押し当てていきたいと思う。言うならば心の中には辛い悲しい思いをする時でも顔には出さない。にこやかに出来れるもの。又は自分の心と言うものを、ほんなこて自分の腹を断ち割って見せようごとあると言うけれども。本当に自分の腹を断ち割って見たら、どういうものがあるだろうか内容に。
 それこそなお幻滅を感ずる。なお軽蔑されるような内容が、お互い腹の中にはあるはずた。めぐりがうようよである。けれどもそれをカバーするもの、腹の中にはこの様に汚いものを持っておるけれどもです。それを汚いものに見せんカバーをする。いわゆる角隠しをする。顔にはにこやかとしておれれるだけの修行をですさせて頂こう。そしてその修行が出来る事をもって、自分の信心の定規として行こうと言うのである。形の事なんかどうでもいい問題は心だと、信心ではそう言いますけれども。
 心は勿論それに取り組まねば信心の妙味と言うのはありませんけれども。それと同時に自分の形の事。私共がこうやって朝から晩まで紋付袴をしております。本当に内容にも、紋付袴が着用出来ておるかと言うとそうじゃあない。そこで形には紋付袴を着用しておる私なんだけれども。心はそんなにきちっとしたもんじゃあないと。だから心はそうではないから、せめて形の上にでも、紋付袴を着用しょうと言うのである。形の上の事なりともさせて頂こうと言うのである。
 その形が出来る事また出来ておる事。そこに信心の定規を当てていこう。自分の信心の姿と言うか、それがいつもに紋付袴に白足袋姿が出来ておるとするならです。定規にぴちっと合った訳。けれども暑いから寒いから、羽織ったり、はいたりしておるのでは、これはいけませんね。これは足袋やら羽織の事じゃありませんよ。形の事それが出来る。心は穏やかではないけれども。態度は穏やかにしておれれる修行。それだけの信心がです、出来なければいけません。
 心が中心、心第一主義でいけば、形の事はどうでもええと言う人がありますけれども。形だけでも言うなら、真似さしてもらおうと言うのである。そこからですその内容を入れていこう。私がこうやって紋付袴をつけておるけれども。内容はこんなもんじゃない。だから内容もいつもこのような紋付袴をつけたような内容でおりたいと。そこから願っていく。同時に形の上の事が出来るだけでも修行だと。
 これは大変その意味を広く頂いてもいいと思うのです。心の上の事から言わば心に辛い悲しいと思う時に、形の上では平静にしておれれる。根性の悪い心を持っておるけれども。その角を隠しておると言う形。私が紋付袴の事を例えにして申しました。まあだ他の全ての事に心には真心はなかっても形にそれを表す。さあお歳暮ださあお年玉だ。もうそげんせんでもいいごとあるけれども。形に表すと言う事です。
 それが形にも表されんなら、もっと悪いのだと言う所を。今日は分かってもらいたい。そして形に表すのがどれだけ出来ておるかと言う事に信心の定規を置いてみたい。これは人に対する場合だけではない。神様に対する場合でもそうである。なかなか心が伴うておらん場合もたくさんある。けれども形の上にはきちっと出来ておる。きちっと出来ておると言う事に私は今日焦点をおいて、形の事も出来ない。
 これではいよいよつまらん。形の事は問題じゃないと言うのでなくて、形の事を問題にしょうと言うのである。その形の事すらも出来んようでは、おかげが受けられんと言う事。同時に、その形の事がです。紋付袴こそつけておるが、内容がこうだと分かったら、これに本当に恥ずかしい事だと思うたらです。心に紋付袴をつけさせて頂くと言う事の、私は精進をさせて頂かなければいけない。
 それに終ってはいけない。心に辛い悲しい、もうあの人は人間がもうポンポン言わっしゃる。腹かいたら腹かいた表情さっしゃる。それではいけんて。心に腹が立ってもそれがなんでもないような、いわゆる角隠しの、出来れる修行さして頂こう。その修行がですね、どの程度に出来るかと言うところに、信心の定規を置こう言う事を、最後に申しましたですね。
   どうぞ。